ABOUT US

正直な心で価値ある豊かさを発見する

街中で見かける気になる住宅、その住宅オネストアークの住宅かもしれません。

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GREETING

創立75年以上
地域で愛される
会社を目指して

この度は弊社のホームページをご覧になっていただき、誠にありがとうございます。オネストアーク株式会社代表取締役の小浜貴士(こはま たかし)と申します。
弊社で取り扱う商品のご説明の前に、大事なお客様に少し会社のお話をさせてください。

祖父、先代の想いを引き継いでいく

弊社のルーツは昭和23年の戦前に祖父が、街中の看板屋として「創美社」を立ち上げたことからスタートします。
現代のように設備機械のないその時代の看板は、人が筆で描き上げることが主流で、達筆であった祖父には、地域のお客様からの依頼が絶えることはなかったようです。その人気は地域の商店だけに留まらず、地元の金融機関等の大企業からもあったと聞いています。

「自分が信じた仕事で、お客様に喜んでもらえることが原動力」

祖父の口癖であったとよく先代(現 取締役会長、私の父親です)から聞かされていました。
時代は変わり、昭和52年に祖父から先代へ想いと事業を引き継ぎ「富士浩工芸」に社名を変更し、より地域の皆様のお役に立てるよう、住宅の塗装・防水工事業をスタートさせます。
今でこそ、住宅の外壁は乾式工法の‟サイディング”という工場塗装をされたパネルを貼る仕上げが主流になりましたが、先代の時代は職人さんが仕上げたモルタル外壁の上に現場で塗装仕上げをする、というのが一般的でした。街中の傷んだ住宅の外壁を綺麗に蘇らせることに使命をかける父のもとに、祖父の時代同様にたくさんのお客様から依頼が入りました。
また、父のもとにはお客様だけでなく、父の想いに賛同する職人さんも一人、また一人と集まってきました。

総合建設業開始とともに経営の不安

仕事も社員も拡大していき、個人商店では限界が来たことから、平成元年に「光世建設株式会社」を設立しました。看板・塗装・防水工事業は継承しつつ、新たに総合建設業、不動産業を開始します。
新事業の取り組みを始めてみると、私が合流したころには、地元の建設会社様、不動産会社様からの「下請け工事」の依頼が増えていく一方で、地域に住まうお客様や街中の商店を営むお客様からの「元請け工事」の依頼が段々と減っていました。
そんな中、私が25歳になった頃、段々と任せてもらえる仕事が増えていく中で、会社の経理にも携わる機会をもらいました。そこで見たのは元請け会社からの未入金の数々、弊社が仕事を依頼した協力店への未払い金、金融機関への返済滞納という、まさしく地獄絵図そのものだったのです。
私は父に、「弊社は元請け会社だけを喜ばす、存在悪の会社になっていませんか。こんな会社ならいっそうのことたたんでしまった方がよい。もし、このまま事業を続けるのであれば、原点に立ち返り、まずは下請け仕事を撤退し、弊社の想いをお客様に届けられるように弊社が元請けの仕事をしましょう」と進言したのです。
まだまだ若く未熟な私が言うのですから、それは生意気だっただろうと思いますし、意見ははじかれても仕方ないと思っていました。
しかし、父の言葉は私の予想を裏切り、「よし分かった。サポートはするからお前が先頭でやってみろ」と賛同してもらい、私の背中を押してくれたのです。
それからこの仕事に就いた時の私の夢でもあった「注文住宅」事業をスタートさせ、営業体系を大きく変えていきました。

現在にも継承される事業、そして想い

事業を開始したものの、やはり簡単なものではありませんでした。
今までは元請け業者から仕事をいただいていたわけですから、営業の手法がわかりません。会社案内をはじめとする販促物すらないのです。
手探り状態でチラシをつくっては、近所にポスティングをしたり、見よう見まねでホームページを作ったりと、とにかく毎日毎日夜中まで働き続けました。

月日は過ぎ、3年後、注文住宅事業も段々と軌道に乗っていく中で、父が私に事業継承を行います。
父60歳、私28歳の年です。
世間から見ると早すぎる事業継承といわれるかもしれません。しかし、父は自分の地位や功績をひけらかすことなく、謙虚で自分より周りの幸せを思う、そんな人だからこそできる、早すぎる事業継承であったと思います。
そんな祖父や父の想いを引き継いできた今、葛飾に長く根付いた会社となってきました。これからも葛飾という地元地域に、住宅を通して還元していきたいと考えております。